NPO法人FDA 成澤俊輔インタビュー

NPO法人FDA 成澤俊輔インタビュー:僕の仕事は、あなたの存在を示すこと。

成澤俊輔インタビュー僕の仕事は、
あなたの存在を示すこと。

NPO法人FDAでは、一般に、就労が困難であるとされるような障碍を持つ方や、時間に制約がある方を対象に就労支援を実施しています。成澤俊輔さんは、網膜色素変性症という視覚を徐々に失う難病を持ちながらもFDAの理事を勤め、年間200回以上の講演をこなすなど、精力的な活動をおこなっています。このたび、budoriは成澤俊輔さんとご縁があり、貴重なお話をうかがう機会をいただきました。

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福祉には自分の
答えはない

きょうは、よろしくお願いします。あの、さっそくですが、まず自己紹介などお願いできますか。

わかりました。僕が生まれたのは、九州の佐賀県というところで。そうですねえ。あの、5年か10年に一回くらい、甲子園で優勝したり、一発芸人がブレイクするような県と言えばいいでしょうか。最近は、松坂牛を超えた佐賀牛があったりとか、TSUTAYAと図書館を合体させた武雄市の樋渡元市長とか、少しずつ面白い話題も増えてきたところですね。

まず、3歳の時に、自分の目の難病がわかりました。それから大学時代の大学7年のうち、2年間、引きこもりをしていたということと、それから2013年に髄膜脳炎って病気から「てんかん」になりまして。なんでまぁ、障害とか、病気とか。これだけ悲劇がいっぱい来るのは自分だけちゃうかな……と思いますね。

ひとつずつ伺わせてください。まず、その目の病気のことからお聞かせください。

3歳のとき、家族みんなで、花火してたんですよ。
「俊輔、花火の燃えカスをバケツに入れなさい」って言われた時に、あの、花火が、燃えなくなった瞬間、花火が見えなくなったんです。そのとき、親が「この子は暗いところが見えてないんじゃないかな」って、思ったらしく。
それで両親が、いろいろな病院を駆けまわって。網膜色素変性症だとわかりました。
いまでも、花火を見るとね、ちょっとこう、いたたまれない気持ちというか。ま、いま、ほとんど花火って見えないわけですけど。光は見えるんですけどね。

そのあともね。20歳の頃に、みんなで花火大会とか見に行ったりしたんですけど。私の両親はこの花火を見た時、どう思ったかなぁ……、とか。花火見ているときに、あの3歳の時ってどう思ったのかな……ってね、よく走馬灯のように考えることがあって、ちょっとね、筑紫花火をみんなで見に行くのって苦手ってことはある。

小さい頃は、もっとしっかり見えていたんですね。

視界は、成長とともにどんどん狭くなっていきました。小学生の頃には、サッカーボール1個分くらい見えていた範囲が、中学、高校のときでソフトボールくらいになって。大学で500円玉くらいに。それで、23歳くらいの時に、まぁ、あの、視力がなくなって。人の輪郭とか文字とかまったく見えなくなって、ほぼ失明に近い状況になりました。病状としては、進行が早いようです。普通は40歳から60歳くらいでこういう状態になると言われている病気なんですね。

大学は九州ですか。

いえ。ちがいます。埼玉の大学に行きました。障碍のこととかを、俯瞰してみるとっかかりとして、福祉の一番の学校に行こうと思いましてね。

僕もね。プライドの高い九州人ですから。大学に入ったら、こうありたいみたいなビジョンがあったわけです。もう福祉どっぷりで。国家試験も取ってね。ボランティアもして、福祉のバイトもして、最後は主席で卒業する。みたいなね。

でもね。「あ、ダメだな」って思ったんですよ。大学には。

まず、ひとつがですね。年配の教授みたいのが、前に出てきて「お前らな」と。「障碍者ってこういう人生を歩んで来たり、こういう歴史的背景があるんだよ」っていうのを聞いた瞬間に、この人たちムカつくなって思ったんですよ。僕は、毎日、どう改善していこうかなって生きているのに、「障碍者」ってひとくくりにされて、まるでわかったかのように言われて。この人たちは、いったい何者なんだと。非常に違和感を覚えたわけです。

それと、高校時代まであんまり障碍と向かい合わずに生きていたんですよ。慣れと経験と勘とキャラで、ごまかしてきたという部分がありまして。

たとえば、スポーツなんてほとんどできないんですよ。

バスケットボールなんかできません。体育館の床と壁って大体、黄土色とか茶色みたいじゃないですか。バスケットボールってオレンジ色なのに、ほとんど色の区別がつかないんですよ。でも「あ、見学します」っていうのは、きらいだったんです。それなら、どんくさいキャラを演じればいいかなってね。ずっとごまかしてきて。

ですけどね。大学で「じゃあ、障碍者福祉の授業を始めます」っていうことになってね。「障碍者ってこうなんだぜ」みたいな一方的な話を90分間、聞いていたら、なんかひとりで悲しくなってきて。障碍者って大変だよなぁ……って。

それから、学生時代に福祉のボランティアをしようと思ってまして。あの、ALSっていう筋萎縮性側索硬化症と言われてる、まぁ最後には心臓の筋肉が止まってしまうっていう難病があるんですけれど、ま、そういうかたを介助するボランティアってのがありました。

「おぉー、いかにも福祉系の学生のボランティアっぽいな」って思って、さっそく行ってみたわけです。そこには、もう、まばたきしかしない人が目の前にこう寝てまして。コミュニケーションボードって言う五十音順に文字が並んだボードなんですけど。そのボードを指でさしていくわけですね。

相手の目を見ながら、指をスライドしていくんですね。「あ、か、さ」って、「さ」に指がきたとき、まばたきするので、「さ」で指を止めるんです。こんどは、タテにスライドしていって、「さ、し、す、せ」、「せ」まで進めたら、また、まばたきをする。

「せ」……。あ、洗濯? 洗濯ですか? まばたきをされたら、洗濯に行く……。っていうね。この、まばたきしかできない人に、自分は何してあげられるか。いや、そもそも、そのまばたきもよく見えなかったりするわけなんですけど。

それから、福祉の仕事の場合、話の聞き手になるというのもあるんですけど、おわかりのように、僕は、ちょっと、人の話をあんまり聞けないというか。しゃべりたくなっちゃうんで。どうやら、自分には向いてないぞ。というところは、わかりました。

もともと、僕が就労困難者である。というところがスタートで、福祉を勉強したけど、福祉には答えがない。……と、なりまして。

では、自分の落としどころとして、いや、僕が、この福祉を受ける受けないとかそういうところで収まるより、自分が外の世界で活躍したほうが、なんかこう、みんなにとって良いんじゃないかっていう、ちょっと勝手な屁理屈を考え始めたんですね。僕が活躍していることでなんか良い影響与えられているんじゃないかなー、と。

そう思って、20歳くらいから、経営コンサルティング会社で、インターンシップをはじめました。そのあと独立をしたりして、いまの会社に来たっていうわけで。まぁ、ずっと経営っていう仕事に関わらせていただいたっていうのが……。

……こんなので、自己紹介になりますか。

ありがとうございます。それにしても、こうしてお話をしていて目が合いますね。

目を合わせよう、という練習というか、日頃から意識はしています。いや、何もすごくないです。ただただ普通に生きてる。それだけです。

お話は、まだまだ続きます

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