インタビューvol.2 山陽製紙株式会社

二,倉庫をも創りだす創意で、どんなものも紙に抄き込む。

黒田 うちの技術で特に「抄き込み」という他社にないものが。まあ単純に言えば、紙に色をつけるとかというのもひとつの抄き込みに入るのですけれども。クレープ紙というのは、“できた紙を張り合わせ、糸を入れてから、クレープをつける”というのが、それまではほとんどだったんです。それならば、いっぺんに紙をつくりながらやったらいいじゃないか、というところから抄き込みの技術ができ、そしたら環境問題的にもこんなに影響が少ない…というような。
 それはいっぺんにどうしたというのではなくして、徐々にそういう長い間の姿勢がですね、そうなっていったんではないかと思うんですよね。

紙を作りながら糸を一緒に抄き込むことができる。紙を作りながら糸を一緒に抄き込むことができる。

社員で立てた倉庫は、現在も現役で活躍中。社員で立てた倉庫は、現在も現役で活躍中。

有村 さらりと55年と言われてますが、「たった」55年ではない。それこそオイルショックは…私は8歳でしたけれども。

黒田 あれは厳しかったですね。どんと数量が減りましてね、社長と先代とで「マシン1台にしますか」という話をしました。
 そのときにみんなで何をしたかと言いますと、倉庫をつくったんですよ。裏のね、倉庫を。ほんとに自分たちで掘って、図面引いて、鉄骨たてて、トタン敷いて…倉庫ですよ。後でこれですよというのをお見せいたしますが。そういうようなアイデアですね。いろんなことをやりました。

有村 50周年の記念史で拝見しました。あとで実際に見させていただきたいとおもうのですが、時間があるなら倉庫をつくってしまおうというその創意。本当にすごいですね。
それにしても、オイルショックのときは当時1冊30円のノートが、急に150円になったんです。その翌日帰ったら210円になったんですね。子ども心にどうなるのだろうかと。その値段が上っていくさまを見て。そのときは世の中の動きなんてまったく分からなかったですからね。

黒田 いまでこそ雇用調整給付制度ありますけど、そのとき私らは初めて活用して…。月のうち半分しか動けないわけですから、厳しかったですね。ただ、その割に大きな値崩れはなかったんですね。われわれのつくっていた紙は、その時代はまだまだどこにでもあるような紙ではなかったというところですね。それがひとつの強みだったんかなとは思います。

原田 まあ、ニッチなところに入って、セメント袋の口縫いの紙ですからね。そういうのをつくっているところは、当時本当に少なかったです。大手もやるようなことをやっていたら、たぶん今はなかったと思うんですね。
 高度経済成長で、2台のマシーンが煙りを吹きながら24時間紙をつくっていました。1台はライナーといって段ボールの外側に貼る紙を、1台はクレープ紙と両方やってたんです。生産能力いっぱいになって、両方は無理だからどっちを選択するかというときに、クレープ紙に特化しようということになりました。その意志決定が今日まで生き延びてる結果につながっているのです。

黒田 まあ、そうですね。それが、昭和36年だったと思うんですよ。最初クレープをやっていた機械もあるし、何回も何回も、古いやつを入れ替え入れ替えでメンテナンスをして、いまの新しいものはごく一部で。あっちこっちから集めてきて、自分たちで考えてアセンブリしてできた機械なんですよ。
 昭和36年までは、まだ1台はライナーとクレープを切り替え、切り替えでやってきたんですけれども。大手さんは、中小が大きくなったような、ほんとに皆、商社さんのひも付きで…。商社が金を入れて設備をさせて、原紙も買ってというような商売。しかし、それはもう、どんどん淘汰されていきまして。
 結局、うちはそこで、ニッチなところへ入っていく。われわれの業界でも何社かはあったんですけれども、クレープの中でも先を見越して、何かやっていないところは自然に淘汰されて…。製袋と言っていますけれども、それだけでなく、シワがつくものであれば何でもやろうと。

原田 下請けではなかったので、自分たちで創意工夫をしながら、意志決定をしながらやってこれたというのが大きいかもしれないですね。紙の中に糸を入れるという技術を生み出して、それで自信がついて「我が社の強みは、抄き込み技術である」ということになりました。どんなものも紙の中に入れてみせましょうと。それで、梅炭もそこからお声がかかったんですね。

梅炭紙とは、種を灰にし、粉にして紙に抄き込んだもの。梅炭紙とは、種を灰にし、粉にして紙に抄き込んだもの。

今までにつくった、様々なものを抄き込んだサンプル紙。今までにつくった、様々なものを抄き込んだサンプル紙。

有村 梅炭の話は、向こうからきた話なんですか?梅の炭があるから…と。

原田 そうなんです。もともと廃棄物を活用する「町おこし」につながればということで、和歌山の先生が備長炭の窯で焼くように梅の種を焼いて炭にしたのです。

黒田 それからしばらくして、その話がきまして。紙に梅炭を入れられないかなという話を持ってきてですね。黒いものというのは、排水の汚染の問題がありますので、そうであれば中に入れればいいじゃないかということで。
 まず最初は、後加工で「吹きつけ」というのをやっていましたので、これを吹き付けてというのをすぐに考えて、紙と紙の間に吹き付けるという方法をとったんです。ですが、いかんせん炭が多く入っていきますと、繊維などないですから、剥離の問題が。そうすると入れる量は、自然と制限される。というところから、完全に抄き込みをすることに…というところですね。
 炭の話があってからは「それができるなら、あれができないか、これができないか」ということで、プルーンの種がでてきてたり…ということで話が広がって。
 実際にやったのは、セイタカアワダチソウ。それから、炭も梅炭にジュート麻の炭とか、ミカンとか、高速の券。それから、広島の折り鶴ですね。

有村 広島の折り鶴というのはすごいですね。あれはゴミになってしまうそうですからね、困ったもんでね。とてもありがたいものなんですけれどね。

黒田 90トンあるそうですよ。その内の10トンを再生して…。

有村 90トンてどんなんだろう…想像もつきませんね。

原田 ほんとに志は大きいんです。その廃棄物の入った紙を、一般のユーザーさんにどんどん使っていただいたら、それだけ廃棄物が減ってくるではないかという声を出して。一番最初にこの『キッチン・ト』ができたのは、サランラップが台所で使われているように、この紙もお台所でどんどん使われていけば、廃棄物がどんどん減っていくということをおもって創りはじめたんです。
 でもなかなか力不足で、ばーっとは広がっていかなくて。7年ぐらいずっと苦労していろいろ見聞きしたり…やっとこの頃分かったのは、一般消費者の方は「これは何に使う」「このように使う」「有効期間はどのくらいまで」と詳しく分からないと使ってくれないということ。「何にでも使えますよ」では駄目ということ。「これはこれ用ですよ」としたら使っていただけるということ。そしてネーミングは大事で、パッケージも大切だということが最近になってわかりまして。これは、やはりデザイナーさんにお願いしないといけないなと思って、一昨年大阪市の産業デザイナーセンターに駆け込んで、「デザイナーさんを紹介してください!」と言って紹介していただきました。
 それでご縁が出来たのが今、プロデュースしてくださっている島さんという方です。いろいろなことを勉強しながら、やっと消費者の方のところに向けて発信できるようになりかけてきました。
 いままで、メーカーでしたから、ネーミングもパッケージも全然無縁の世界でした。
代理店しか知らなかったので、マーケティングもできないし、相当右往左往してやっと、うちのプロデューサーの島さんが理解してくださって、一緒にやっていきましょうと、後押ししてくださって今があります。

有村 そうして生まれたのが、この梅炭シリーズなのですね。

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