西村修プロフィール 有村正一 プロフィール

西村修にしむらおさむ

中越パルプ工業株式会社 営業企画部部長。大学卒業後、総合紙パルプメーカーの同社に入社。製紙原料である木材チップの国内材集荷拠点を国内各地、外材集荷拠点のアメリカ赴任を経て、現在は東京本社勤務。2009年から「竹紙」などをもとに企業のブランディング活動を主導し、ソーシャルグッドを実践中。エコプロダクツ大賞農林水産大臣賞や生物多様性日本アワード優秀賞など、環境分野における数々の受賞を果たす。

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有村正一ありむらしょういち

株式会社budori 代表取締役社長。自然と共生する緑化商品の開発、『愛・地球博』ボランティア、藤村靖之氏主宰「発明起業塾」を経て2007年に起業。 環境・しごとづくりワークショップの開催、エシカルショップ運営、UNEP(国連環境計画)のサポーターとして環境商品の推進など、社会課題の解決をビジネスで実践する。現在、建材他メーカー複数社の商品開発と事業運営の顧問も行っている。

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budori たのしごとインタビュー

『budori のたのしごとインタビュー』は、「たのしい」+「しごと」づくりをしている皆さんにお話をうかがいに行き、どんな想いで仕事と向き合っているのか。そして、これからその仕事に就こうとしているひとへのメッセージなどをお訊きする場として、不定期に実施しています。今回は、国産竹100%の「竹紙」の製造やCRM ペーパー「里山物語」を展開する中越パルプ工業の西村修さんにお話をうかがいました。

1僕がやりますよ

有村

株式会社budoriでは、これまで中越パルプ工業の紙を使ってきました。『藤村靖之の非電化の夕べ』で「竹紙」、『虔十公園林』では「里山物語」を採用しました。これらの自社出版物が縁で西村さんと知り合う機会を得ました。最近では、西村さんは銀座で「銀座ソーシャル映画祭」などのイベントも積極的に開催されています。

こうした、さまざまな活動をなさっている西村さんの考える「仕事」ついて、あれこれお話をうかがってみたいと思いました。

西村

よろしくお願いします。いまの仕事をするようになって、あちこちで取材を受けるようになりました。でも、初めてのことを試行錯誤を重ねて進めているだけなので、人に伝えるほどの自分の考えってないですよ。

有村

そうですか?

西村

ええ。でも、こうやっていろんな人から質問をされて、何回も同じようなことを話しているうちに、だんだん、自分の意見ってこうだったのか。って気づかされることがあります。だから有難いんですよ、今回のようなインタビューって。

有村

今日の、この場も西村さんにとって良い機会となればいいんですけど。さて、さっそくですが、いまの仕事に就いた経緯みたいなものからお聞かせいただけますか。

西村

どこから話したらいいんですかね。長くなりますけど、中越パルプ工業は、大学の卒業とともに就職しました。

とくに大きな志のようなものは持ってなくてね。僕は、ごく普通の学生だったというか。とくに森が好きでも、まして紙が好きでもなくて、どうせサラリーマンなんてどこでも似たようなもんだろうと、ひとつの就職先としてこの会社に入りました。というのが本当のところです。

入ってみたところ、職場に恵まれたのでしょうが、思ったほど仕事は辛くなかったけれど、思った通り面白くはなかったです。仕事っていうのは、きっとこんなもんなんだろうな。とか、そんな感じでしたねえ。

もともと、森林とか林業とかを学ぶ学部にいたので、予定通り、配属先は、紙の原料となる木材を集めるような部署に配属されました。

当時、国内材集荷のための事務所が日本各地に何カ所かあったんですね。それぞれの規模は大きくなくて、僕と上司の2人とかひとりきりとか。若いころは若者もいない田舎で、そんな感じの寂しい環境でしたね。

でも、だんだん国内材が減って、海外からの輸入材が急増していく時期でした。そうなると、国内拠点がひとつ、またひとつと減っていくんです。そうなるたびに、独身だった僕は都合よく転勤させられていました。

結果的に、なくなっていく国内拠点をあちこち経験することになりました。

チップ工場土場
森林伐採現場
有村

海外からの輸入材が国内の林業の仕事を減らしてしまったのを間近に見ていたということですね。

西村

よく山の伐採現場に行ってました。高齢者しか働いていなかったその頃から比べれば、今は若い人もいるので、良くなったと思いますよ。

有村

最近、再び、林業などの国内の第一次産業が見直されていますけど、当時は後継者も不足していたでしょうし、国産材の先行きが見えない時期でもあったんでしょうね。

西村

そうですね。その頃の僕は、割と要領の良い、ふつうのサラリーマンでね。毎日毎日、仕事を時間の切り売りみたいにしていた時期というのが入社から20年くらいありましたね。

有村

しかし、それを変えるきっかけみたいなものがあったわけですよね。

西村

そうです。これは振り返ってみると、偶然が続いた部分というのがあると思うんですけど。

あるとき、会社の本社機能が創業地である富山に移すということがあって。営業以外の全ての部署が富山に移動するなかで、僕は東京に残されました。そこで営業以外の仕事をするという立場になりまして。

偶然、その頃、横浜港開港150周年を記念して、横浜で博覧会があった頃なんですね。

有村

「開国博Y150」ですね。

西村

そうです。あのとき、海側のシーサイドエリアと、山側のヒルサイドエリアの2つの会場に分かれていて、ヒルサイドエリア側のシンボルとして「竹の海原」というのがあったんです。これは2万本くらいの竹で作られた、けっこう壮大な建物でした。この竹は横浜市内の放置竹林の竹を使ったものです。

竹の海原
竹の海原

この「竹の海原」を作ってみたはいいけれど、イベント終了後、竹を処分するだけで良いのか、リサイクルできないのか、と。

そんなとき、関係者が調べて、どうやら竹で紙をつくる会社があるらしいと、中越パルプ工業に白羽の矢が立ったというのかな。ぜひとも、この竹を紙にしてほしいと。

このあたりの経緯は、あとになって僕は聞いたんですけど。ともあれ、その依頼を会社は承諾したらしいんですね。そのうえ、せっかくだから出展もしてはいかがですかと。それまで小さなイベントにすら出展したことがほとんどない会社なのに、突然、大きなイベントに出展もすることになっちゃったんです。

ただ、会社もね。それまで竹100%の竹紙というのはつくっていなかった。配合率を10%とか20%程度がせいぜいでね。そのとき、たぶん当時の社長のアイディアだと思うけど、せっかくだから100%竹紙を作ってみたらどうかと、鹿児島の工場で試抄を始めんだと思います。

ともあれ、この「開国博Y150」に企業として出展し、協賛するような立場になりました。ただ、ちょうど本社機能が富山に移転することもあり、東京に残った社員のなかで、これを担当できる人物がいなかった。このイベントの責任者だった僕の上司(役員)が困っていたのを見て、僕だったらできそうだなと思って、ほかの仕事もあって忙しかったんですけど、僕がやりますよ。と、引き受けたんです。

有村

自分から声をかけたんですか。

2.考えて動くのが「仕事」
10th anniversary
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